自己愛性人格障害(374) 思想信条の自由の悪用 4「被害の流れ phase 1」
経験則による人格障害の本を出版する希望は今も持っている。このブログをそのまま書籍化するのではなく、内容的に普遍的なものにしたいため、このブログを下敷きに新たに書き下ろしをしたいと思っている。5年後か10年後かわからないが自費出版であれ必ず作る。そしてワシはそうしたいと思ったことは、今まで大抵は実現させている。今、人格障害の正体が断片としてワシの頭の中に散らばっている。それを上手く繋げて論理として繋がるような作業をしている。頭の中だけではなく文章化して形に残さなければと、焦りに近いものも感じている。
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今、人格障害者の被害の流れを考察している。ここで再び人格障害者キョショーを例にとってみる。ワシはコイツに対し何もやってない。やってないどころか当初は存在すら知らなかった男である。ところがどういう理由か知らないがワシを誹謗中傷するようになった。ワシは普通に生活し、普通に仕事をし、普通に日々を過ごしていただけである。それこそワシは何もしていないのに、何がヤツの琴線に触れたのであろうか。まるで普通に道路を安全運転していたら、反対車線から暴走トラックが突っ込んできて事故に巻き込まれたようなものだ。ワシの友人でもある弁護士の先生は、それを指して「プレゼンスとルサンチマン」と表現した。つまり存在感と嫉妬である。ワシが普通に生活し、普通に仕事をし、普通に過ごしていても、周囲から見れば仕事が順調で美人の嫁さんがいて幸福に過ごしているように見える、それが気に入らないというのである。そりゃワシとて多くの悩みを抱えていて、それを表に出さないだけの話なのだが、人格障害者からは表層に見える他人の幸福だけがルサンチマンの対象なのだろう。人格障害者の動機は一言でいうと「他人の幸福を妨害したい」である。
でもなあ、幸福そうなのが気に入らないと言われてもなあ。
妻が外で楽しんでくるのに対しモラハラ夫が不機嫌になるように、人格障害者どもは他人が楽しそうに生きている、幸福な人生を送っている、仕事が順調そうだ、それらが気に入らず、妨害しようとする。それは翻って人格障害者が不遇な人生を送っているからに他ならない。人生は自分で切り開くものだが、自分が努力して上がろうとするのではなく、相手を引きずり降ろしてやれと考えるのである。なぜそういう歪んだ思考になるのかはさておき、人格障害者の被害に遭う最初のきっかけは、あなたが幸福な人生をおくっており、それに対し嫉妬されたからである。間違いない。嫉妬なんぞと人格障害者どもは絶対に死んでも認めないだろうが、嫉妬である。人格障害者の三種の神器「妬み」「悪口」「嫌がらせ」のひとつである。プレゼンスとルサンチマン(存在感と嫉妬)をきっかけとして、こちらが何もしていないのに、向こうから攻撃してくる。これが人格障害者による被害の第一段階である。
ワシの過ちは人格障害者キョショーの嘘の誹謗中傷に反論した点であろう。当然ワシはそういう嘘をつくなと反論する。これが人格障害者を刺激してしまった。ワシの反論に過剰に反応して誹謗中傷に拍車がかかり、嘘をデッチあげ更にデマを広げるようになったのである。人格障害者の攻撃は放置するのがよいのか、それともカタつけるのが良いのか、ワシは過去に放置して後悔した経験があるので、カタをつける方を選んだ。そして人格障害者キョショーの反応はやはり人格障害者ならではのものであった。自分から最初のきっかけを作っておきながら、反論すると「攻撃された」とさらに騒ぎだす、何もしてないのに自分は被害者であると、また騒ぎ出したのである。この時点で既に周囲を巻き込むことになっているだろう。これが人格障害者による被害の第二段階である。
自分から最初のきっかけを作っておきながら、反論すると「攻撃された」と騒ぎだす。人格障害者に手がつけられないのは、こういう点である。じゃあ最初のきっかけは何なのだという疑問は、そこに山があるから登ると同様に禅問答のようなものであり、人格障害者がたまたまワシに目をつけた不運と思うしかない。そして次のワシの過ちは、人格障害者キョショーの拍車がかかった嘘とデマに再反論した点である。そのワシの再反論が的を射ていて、それ以上何もできなくなると、今度は人格障害者キョショーは嫌がらせに走ったのである。これが人格障害者被害の第三段階である。
(1) こちらが何もしていないのに、向こうから突っ込んでくる
(2) 反論すると、攻撃された、自分は被害者だと騒ぎだす
(3) さらに反論すると嫌がらせに走る
なぜ言論のやりとりがリアルな嫌がらせに転嫁されるのか、本人に理由を求めたが返答はない。いずれにしても、人格障害者に狙われた人が辿る経緯は、上記(1)から(3)の流れに集約されるのではないだろうか。人格障害者どもの嫌がらせにかける(3)の情熱というのは常人には信じられないものがある。普通は(2)になるのが明白なので泣き寝入りする人が多いのではないか。何をやっても被害者になりたがるので手が付けられない。放置するしかないという気持ちもわからないでもない。ワシもかつてはそうだった。
しかし放置する事が必ずしも良い結果を生むとは限らない。放置すれば収まるかというと、人格障害者は反応が欲しいのか更にエスカレートしていく。ストーカー被害にあった元AKBの岩田華怜は「私が反応したり、相手にしたりすると逆効果になることが多かったので沈黙を守ってきました。しかし最近、また事態が悪化して来ました。」と書いている。ワシもその意見に賛成である。上記の(1)から(3)の流れは、自分と人格障害者の1対1の関係で生じている。しかし(2)の段階に入ったところで既に周囲を巻き込んでいるはずである。元AKBの岩田華怜は「私が何よりも嫌なのは、私の周りの人を巻き込むことです。」と書いている。
人格障害者からは逃げるしかないと思っているが、周囲を巻き込むと看過できなくなるのではないか。その周囲ごと人間関係を切って逃げる覚悟があるなら、それに越したことはないが、そうできない場合、やはり人格障害者には断固たる対応をすべきではないかと思っている。「逃げるしかない」と矛盾すると思うかもしれないが、ワシの頭の中では整合性がとれている。それはこのブログを進めていく過程で理解してもらえるよう書いていくつもりである。
このトピックで強調したいのは、人格障害者の被害のフェーズ1としての上記の(1)から(3)の流れである。次の項ではフェーズ2を書こう。