自己愛性人格障害(225) 子供 3 「かまっての合図」
北海道南幌町の事件の続きを書こうと思ったが、
今、書きたい事が溢れているので、別の事を書きたい。
実は、恥ずかしながらボクは小学校高学年までオネショをしていた。
オネショは毎日のことだったので、
布団の下にビニールのシートをひいて寝させられていたくらいである。
ある程度の年齢になっても治らないので、
両親が困って、ボクを連れて病院に相談に行った。
1981年5月の事である。
なぜ1981年5月だと覚えているかというと、
ボクを病院に連れていく「釣り餌」として、
両親が別冊コロコロコミック創刊号を買ってくれた、
その発売月だから(笑)
病院の先生は、ボクに優しく質問をしてきた。
「お父さんは怖くないかい?」「学校は楽しいかい?」
オネショは精神的な要因が多くを占めることがわかっているが、
それでも、その時は原因がわからなかった。
しかし、ボクも、母も、今ではアレだなという心当たりがある。
この件に関して、ボクと母で認識が一致している。
オネショ・・・それは「かまって」の合図だったのではないか。
*****
ボクの母親は保育所に勤めており、
毎朝、自転車で30分くらいの通勤をしていた。
小さい頃は、自転車の後ろに乗って一緒に連れて行ってもらったものだが、
弟が出来てからは、弟を連れて行って、ボクは家にいることになった。
これで留守番しているんだよと言って、母はボクに100円玉を握らせたものだった。
もちろん当時の母の状況を考えると仕方ないというのはわかるし、
それでボクが邪険にされていたとは、当時も今も思っていない。
家では祖母が和裁の仕事をしており、
着物を縫っている傍らで、ボクは婆ちゃんにじゃれて遊んでいた。
昼食も婆ちゃんが作ってくれていた。
しかし、ある時、どうしても母に会いたくなった。
母の勤めている保育所は自転車で30分と遠いものの、
一本道をひたすら真っ直ぐという場所にあったので子供でも迷うことはない。
ただ遠かった。
その道を、ボクは、ひとりでテクテクと、歩いていくことにした。
自転車で30分あまりが、子供の足でどれくらいなのかは、わからない。
ただひたすら、真っ直ぐ、歩いて行った。
母の職場に着いた頃には、日が暮れかかっていた。
ボクが突然、職場に現れたものだから、母はびっくり!
「ずっとひとりで歩いてきたのか?!」
小さい頃の大冒険の想い出である。
*****
母は、ボクがある程度大きくなった時から、
かつてボクひとりを家において仕事に行ってたことを、
あれは失敗だったと、よく後悔を口にしていた。
ボクと弟は何から何まで対照的で、
例えばドンブリをボクは端からキレイに食べるが、
弟はグチャグチャに食べる。
たかがドンブリとはいえ、性格が良く出ていると思う。
お兄ちゃんだから、という理由で後回しにされていた。
そして、それは確かに正しい選択だった。
ボクは、まったく手のかからない、 放っておいても大丈夫な子供だった。
勉強も出来たし、友達も多かった。
しかし、ボク自身、無意識のうちに、
ボクを置いて母が弟と毎朝出かけるのを見送る立場に、
どこか淋しいものを感じていたのだろう。
手のかからない子供と、手のかかる子供がいた。
親は、手のかかる子供の方にばかり気持ちがいって、
手のかからない子供の方は放っておいた。
そして、これがダメな事だと母が気付かなかった理由は、
それで何の問題もなかったからである。
今となっては、これがオネショの遠因であったと、
母もボクも思っている。